忘れたンゴねえ

就活が辛い。

堕落したオンライン生活で授業中にYouTubeを貪った結果、手帳日記もブログも使わずポツポツと140文字のノートにしか物を書かない人間になっていた。

そもそも二十歳までは自分の思っていることや苦しんでいることを言葉にしたくてしたくて仕方ない情熱を持っていたが、現在はというと全くその情熱がなくむしろ文章を書くことがそれほど心地よくない。

この変化はなぜか。YouTubeTiktokに侵され言語野がお亡くなりになったというのは十分考えられることだ。←もうこの文章がおかしい気がする。作文能力が一切ない。ばなな。

大きな変化といえば、衝撃を受けたり挫折したりした時に、自分の感情に立ち返るということをする時間が大きく減った。「悲しい」「なぜ悲しい」「私はこういう人間だ」という深淵に落ちるのではなく、どの行動がダメだった、次はこうするということについて考えるようになった気がする。前ほど悲劇のヒロインにならなくなったし、前ほど文脈をすっ飛ばしたサブカル女喋りをしなくなった。(この文では「文脈をすっ飛ばした」の部分が文脈をすっ飛ばしていない証拠だ)

これは良い変化なのだろうか。面談の結果、私の人生を振り返ると「なりたい自分になることを諦めなかった人生」だそうだ。とてもしっくりくる。小学校より中学校、中学校より高校、高校より大学の自分が好きだ。周りに配慮できるようになり、多角的な視点で思考することができ、手仕事的にもできることがぐんぐんと増えてきた。そしてここにきて個性が消えた寂しさすら感じているのはわがまますぎやしないか。ただ、私の個性は自己肯定感の低さと感情変化の激しさではなかったのか。誰かに敵意を向けている自分が嫌いだったから、変えた。でも楽しかった。次は何を?没個性になりたかった私は結局何をすれば?伊織よりも稲葉がヒロインなのは、そこに確固たる信念があるから、ヒロインたる自己を持っているから。なぜ私は稲葉の道を進まなかった?伊織になろうとした、その方が刹那的に幸せだと思った。世界中を敵に回しても信じ合えるたった1人と出会うラブコメなんていらない、私の人生にはたった1人の王子様などいらないのでできる限り多くの人に好かれたいし認められたい。そう思ってたからこの苦しみは知らなかったんだなあ。

 

蹉跌という言葉の意味を初めて知った。挫折って意味なんだ…

自分を見失わないためにも、毎日日記をつけることは大切すぎると感じた。今から無印で手帳買っても遅くないかなあ。